「また出しっぱなし」
「どうして片付けられないの?」
「これ、いらないでしょ?」
夫に言われるたび、
「分かってるよ」
「私だって片付けたいよ」
と思う。
ちゃんと片付けられる人から見れば、「やればいいだけ」に見えるのかもしれない。
でも、なぜかできない。
そして何度も言われているうちに、
「片付けられない私が悪い」
そんな気持ちになってしまう人もいるのではないでしょうか。
でも私は、家族の片付けを
「片付けられる人が正しくて、片付けられない人が悪い」
という話にはしたくありません。
子どもが小さかった頃は毎日が忙しくて、多少散らかっていても、とにかく今日を回すことで精一杯だった。
ところが50代になって。
子どもが巣立ったり、家にいる時間が増えたりすると、それまで見過ごせていたことが妙に気になり始めることがあります。
夫婦二人の暮らしになって、初めて気づく。
私、この人と「片付いている」の基準が全然違うんだ。
今日は、そんな「家族と片付け」の話です。
同じ家に住んでいても、「快適」の基準は同じじゃない
以前、わが家で夫が叫びました。
娘(大学生)が散らかしたものを見て、
「なんで片付けないんだ!」
夫にとっては、散らかっている状態が不快です。
だから、
「片付ければいいじゃない」
となる。
ところが娘は、困っていない。
ただ面倒だから、そうなっているだけ。
「これくらいなら別に平気」。
つまり、同じ部屋を見ていても、二人が見ている世界は違うんです。
これは夫婦でも同じです。
夫は気にならない。
でも妻は、テーブルの上にものがあるだけで落ち着かない。
反対に、
夫は「もっと片付けろ」と言うけれど、妻にとっては、どこに何があるか分かっているし、特に生活に困ってはいない。
そんなことは、いくらでもあります。
だから私は、家族の片付けの相談を聞くとき、時々こんなことを考えます。
「本人、困ってる?」
「本人が困っていないなら、あなたが我慢して」ではありません
ここは、とても誤解されやすいところです。
「本人、困ってる?」
と聞くと、
「じゃあ、散らかしている人が困っていなければ、家族は我慢しろってこと?」
と思う人もいるかもしれません。
違います。
私が一度外してみたいのは、
「相手も当然、自分と同じように困っているはず」
つまり、
「私が感じていることが正解」
という前提です。
散らかっているのが不快な人。
散らかっていても気にならない人。
ものが見えている方が安心する人。
ものが視界に入るだけで落ち着かない人。
細かく分類して収納するのが好きな人。
ざっくり入れられないと続かない人。
同じ家族でも、違います。
それを、
「普通はこうでしょ」
「片付けるのが当たり前でしょ」
で片方に合わせようとすると、片付けはいつの間にか、
“どっちが正しいか”を争う話
になってしまいます。
「誰かが不快なら直すべき」だけでは解決しない
共同生活なんだから、誰かが不快に思うことは直すべき。
そう考える人もいるでしょう。
もちろん、一緒に暮らす以上、お互いへの配慮は必要です。
でも私は、それだけでは解決しないこともあると思っています。
たとえば、
夫は「散らかっているのが不快」。
妻は「自分のものを勝手に触られるのが不快」。
あるいは、
妻は「出しっぱなしが不快」。
夫は「いちいち片付けろと言われるのが不快」。
二人とも不快だったら、どうするのでしょう。
どちらかの不快を「正しい」と決めた瞬間、もう一人は我慢する側になります。
だから必要なのは、
「どっちが正しい?」
ではなく、
「違う二人が一緒に暮らすなら、どこで折り合える?」
という話なのだと思います。
共有スペースはここまで整える。
自分の部屋は本人に任せる。
これは出しっぱなしでもOK。
これは毎晩戻してほしい。
相手を「自分と同じ基準の人」に変えなくても、二人が暮らせる仕組みを探すことはできます。
片付けられない側も、「悪い人」にならなくていい
そして私は、片付けられない側にも伝えたいことがあります。
家族から、
「また散らかして」
「どうして片付けられないの?」
と言われ続けていると、
片付けられない私はダメ。
そんなふうに思ってしまう人がいます。
でも、片付けられない理由も人それぞれです。
細かい管理が苦手なのかもしれない。
しまうと存在を忘れてしまうのかもしれない。
今の収納場所と、実際の生活動線が合っていないのかもしれない。
子育て中につくった家の仕組みを、そのまま使い続けているだけかもしれない。
ものが多いというより、ものの流れが止まっているのかもしれません。
だから、
「私ってだらしないから」
で終わらせなくていい。
必要なのは、自分を責めることではなく、
「私は、どんな仕組みなら暮らしやすいんだろう?」
を知ることだと思っています。
50代になると、「家族と暮らせる時間」は思っているより短い
子育て中は、ずっとこの生活が続くような気がしていました。
でも、続かないんですよね。
子どもは大きくなって、家を出ていく。
夫婦の働き方も変わる。
親のこと、自分たちの老後のことも、少しずつ現実になってくる。
家族の形は変わっていきます。
だから私は思うんです。
片付けのことで、ずっと家族を嫌いながら暮らすのは、もったいない。
もちろん、だから我慢しましょう、ではありません。
毎日ものすごく苦しくて、何度話しても折り合えなくて、「私はもう、この暮らしを続けたくない」
と思うほどなら。
そこまで来たら、
「どうしたら相手を変えられる?」
だけではなく、
「私は、本当はどう暮らしたい?」
を考えてもいいと思うんです。
「片付けられないなら出ていって」と、「私は別の暮らしを選ぶ」は違う
この二つは、似ているようで、私にはまったく違います。
「片付けられないなら出ていって」
は、相手を変えようとする言葉です。
でも、
「私はこの暮らしが本当に苦しい。だったら私は、別の暮らしを選ぶこともできる」
は、
自分の人生を自分で選ぶ話です。
もちろん、簡単なことではありません。
本当に別々に暮らすかどうかが大事なのでもありません。
大切なのは、
「相手が変わらなければ、私は幸せになれない」
という場所から、一度降りてみること。

相手を変える。
私が我慢する。
その二択だけじゃない。
二人で折り合える場所を探すこともできる。
家の使い方を変えることもできる。
自分の場所をつくることもできる。
そして必要なら、自分が暮らす場所そのものを選び直すことだってできる。
選択肢は、もっとあるはずです。
片付ける目的は、「正しい人」を決めることじゃない
私は片付けの仕事をしています。
でも、
「片付けられる人を増やしたい」
だけではないんだと思います。
片付けられる人も。
片付けられない人も。
一人の人間として、それぞれに心地よさがあって、それぞれに事情がある。
だから私は、
どっちが悪いかを決めるために、家を片付けたくない。
家族と一緒に過ごせる時間は、思っているより短いから。
片付けられる側が勝つ家でもなく。
片付けられない側が勝つ家でもなく。
違う人間同士が、
「じゃあ、私たちはどうしたら心地よく暮らせる?」
と考えられる家にしたい。
そして、子育てが終わる50代は、家族のためにつくってきた家を見直しながら、
「これから私は、どう暮らしたい?」
を考え始めるのに、とてもいい時期だと思っています。
片付けは、そのための手段のひとつ。
も
のを減らすことより先に、今の自分と、今の家族と、今の暮らしを見てみる。
そこから始まる片付けがあっても、いいと思うのです。
「うちの場合は、何が片付けを止めているんだろう?」と思った方へ。
片付けられないのは、
あなたのせいではありません。
暮らし方、ものの持ち方、
家の仕組み、ものの流れ……。
あなたの場合、何が片付けを止めているのか。
個別相談では、そこを一緒に見つけます。
お話を伺ったあと、
あなただけの「暮らしと片付けMAP」
をお渡しします。
「誰が悪い?」ではなく、
今、この家で何が起きているのか。
あなたの場合、
どこから変えると暮らしが動き出すのか。
一緒に見つけていきます。



